アイディタロッド犬ぞりレース
毎年行われるアラスカの犬ぞりレース。3月のはじめの土曜日にセレモニースタートがアンカレジのダウンタウンで行われ、正式再スタートがウィロウできられアイディタロッド犬ぞりレースは始まります。マッシャーと12~16匹のソリ犬達のチームがツンドラ地帯や森、丘や山道などの険しいアラスカの大自然を進みアラスカ西部のノームの町にあるゴール地点をめざします。全距離は1,049マイル(約1,688キロ)あり、大体8日~15日かけゴールにたどり着きます。犬ぞり大会の中で最も有名な国際大会でマッシャー達は全世界から優勝を狙い参加するといいます。
ソリ犬達
アイディタロッド犬ぞりレースにはアラスカン・ハスキーと呼ばれるソリ犬達が多く参加しています。アラスカン・ハスキーはマッシャー達が理想のソリ犬として生み出した犬達で、シベリアン・ハスキー、セッター、サイトハウンド・・・などのミックス犬です。ソリを引くエキスパート(特に長距離)で近年の犬ぞりレースでは欠かせない犬達です。
ソリ犬達の管理
アイディタロッド犬ぞりレースに参加する犬達はレースの前に獣医達のチェックをうけます。予防接種を受けているか、健康に問題がないか、また頭数を管理する上でもマイクロチップの装着が義務付けられています。また過酷な道で足を痛めないように犬達はブーツを装着します。マッシャー達は一回のレースで2000足もブーツを使うとか!また最大16匹でスタートしますが、何らかの理由でレースを継続できない犬達も出てきます。マッシャー達はレースの途中犬を追加することはできませんが、犬達をレースからはずすことは出来ます。ゴールで5匹がハーネスをつけていることはルールで決められていますが、マッシャー達は様々な理由でチェックポイントと呼ばれる途中地点で犬達をレースからはずします。大会では怪我や病気、その他の理由でレースからはずれる犬達のケアのために医療チームが待機し、外れた犬達は飛行機でアンカレジやノームでチームと落ち合います。
アラスカでの犬ぞりの歴史
アラスカ原住民達によって使われていたアイディタロッド・トレイルと呼ばれる道は、1880年~1920年のアラスカ・ゴールドラッシュの時にも重要な交通網でした。夏場は蒸気船によって運ばれる生活用品や手紙も、氷に閉ざされる10月~6月はアイディタロッド・トレイルを使い犬ぞりによって運ばれていました。犬ぞりが冬場の主な交通手段であった頃、犬ぞりレースは人気のスポーツでもありました。1908年に行われたオール・アラスカ・スウィープステイクス(All-Alaska Sweepstakes - AAS)は408マイル(657キロ)をノームからキャンドルの町まで行き戻ってくるというものでした。この犬ぞり全盛期にシベリアン・ハスキーがアラスカにやってきます。シベリアン・ハスキー達を率いたレオンハード・セッパラ氏の犬ぞりチームがレースで連勝を果たします。血清を運ぶ犬ぞりリレー
血清を運んだ犬ぞりチーム達の栄光なしにはアラスカの犬ぞりの歴史は語れないかもしれません。アラスカの人里離れたノームの町で1925年にジフテリアの大流行が起こりました。一番近くに血清があったのはアンカレジでした。飛行機で輸送できれば良かったのですが当時、悪天候の中で飛行できるようなパイロットは地域で一人しかおらず、運悪くそのパイロットが旅行中で飛行機を使って血清を運ぶことが出来なかったそうです。そこで代案の犬ぞりリレーチームがすぐに結成されたといいます。血清はネナナの町に運ばれ、そこからはじめのマッシャーが率いる犬ぞりチームが出発しました。ルート沿いのそれぞれの地域で、町一番の犬ぞりチームが参加し血清を運ぶリレーが行われたといいます。難関であるシャクトーリクからゴロビンにあるノートンサウンド湾のルートは地域で最も優秀なマッシャーとされたセッパラ氏(Leonhard Seppala)とリード犬トーゴ(Togo)が行いました。最終チームは映画「バルト」のベースにもなったリーダー犬バルトを率いるマッシャー、グンナー・カーセン氏の犬ぞりチームで猛吹雪の中、血清をノームの町まで運びノームの町にいる数百人もの命を救ったいいます。この血清を運ぶ犬ぞりリレーはマイナス40度にもなる過酷な寒さと犬やソリを吹き飛ばすほど強い風の中を700マイル(約1125キロ)、127時間(6日間)かけて合計20人にのぼるマッシャー達のリレーで行われました。この英雄達の話は世界中に広まり、ヒーロー犬の代表としてバルトの像がニューヨーク・セントラルパークに建てられいます。
アイディタロッド犬ぞりレースの始まり
しかしゴールド・ラッシュの熱が冷め人々がこの地域から離れていくとアイディタロッド・トレイルはあまり使われなくなります。1920年代に入ると主な交通手段に飛行機が使われるようになり、1960年代にスノーモービルが出てくるとアイディタロッド・トレイルは忘れられた存在になってしまいました。アラスカの歴史の中で大きな役目を果たしてきた犬ぞりをこのまま忘れさせてはいけないと、アラスカ・ワシラに住むドロシー・G・ページという女性が動き出します。彼女はアイディタロッド・トレイルを使い犬ぞりレースができるのではないかとアラスカ・ニックに住むマッシャーのジョー・レディントン氏に呼びかけ、二人はアイディタロッド犬ぞりレース案を宣伝し世間に広めました。1967年、25マイル(40km)を走るショート・アイディタロッド・犬ぞりレースが初めて行われました。$25,000とドロシー、ジョーが持つ土地が賞品となったといいます。ショート・レースは1969年にも再度行われました。1973年にレースを1000マイルに伸ばしノームの町をゴール地点に決めます。過酷な大自然を犬ぞりで走りぬくのは無謀だと言われたそうですが、大会は進められその年22人のマッシャー達がゴール地点までたどり着いたといいます。アメリカ軍や地元のケンネルクラブの助けをかりてトレイルは整備されましたが、それでも最初の優勝者はゴール地点まで3週間かかったそうです。アイディタロッド犬ぞりレースの人気は年を増すごとに上がり、今では優秀なマッシャー達は10日間かからずにゴール地点にたどり着くようになりました。今までに全世界からマッシャー達が参加し400人以上が完走しているといいます。